2007年11月18日日曜日

エコビレッジ訪問 スコットランド3

私の受けた研修は、「エコビレッジ・デザイン・エデュケーション」という4週間にわたる経験者向けのコースだった。エコロジー、エコノミー、ソーシャル、スピリチュアルの4つの課程に分かれている。

中でも初日のディープエコロジーは研修中もっとも衝撃的な印象深いプログラムだった。エコロジーを人間のための資源問題や生態系の保全という視点ではなく、人間も自然の一部であり、人間と一体なものとして自然を体感するという前提にたった考え方だ。

考えてみると、地球上のさまざまな環境問題に対して多くの情報があるにもかかわらず、それらのあふれる情報が人びとの記憶にとどまることはまれである。戦争や貧困にまつわる多くの悲劇が報道されても、それらの知識によって自分の生活を変えたり、新しいアクションを起そうという人は多くない。情報が増えても世界は変わらないのかもしれない。

逆に、自らを愛するように他者を慈しめたら、他者の痛みを我がことのように感じられたら、今の生活は到底できないに違いない。人間と自然、他者と自己の同一視を体感するという考え方には深く共鳴する。

しかしながら、それをプログラム化したとき、やはり頭での理解と心身反応に乖離があることを痛感せずにはいられなかった。たとえば最初のエクササイズは地球の痛みを表現してわかちあうトレーニングだったが、いざそれを実践しようとしたとき、言葉で理解するほど簡単なものではないことに愕然とした。

感情をどれだけオープンにするか、どう表現するかについては、もちろん個人差があるし、文化的な違いも大きいと思われる。言葉で表現されないものへの思いやりや察しの文化は、日本人的なのかもしれないが、西欧ではすべて言葉や態度で表現しなくては理解されないのだろうか。そんなことをつらつらと考えながら、何となく気後れして積極的に参加できなかった。プログラム終了直後には後ろめたさというか劣等感すら感じていたが、他の受講者との会話の中で、国籍はばらばらでも同じような感覚の人がいることに少しほっとした。

研修のプログラムに加えて、夜にはシェアリングという時間があった。中央に置かれた石を握った人が自分の感じていることを語る間、周囲は発言をはさんだりじゃまをするような行為をしてはいけない。ネィティブインディアンのトーキングスティックの要領だ。他のコミュニティでも経験したことがある。

シェアリングは、実務的な情報交換や議論の場ではなく、主に感情的な面を分かち合うために行われる。他人の言葉に心を傾けて聞く態度と、きちんと聞いてもらえる環境をつくることによって、普段は表現しにくい、あるいは衝突を招くようなネガティブな感情も上手にシェアできるのかもしれない。

私は残念ながら、言葉の壁もあり、自信を持って自分の気持ちを表現することはできなかった。また研修という環境の中だったせいか、あまりその重要性を実感できなかったように思う。しかし、家族でもネガティブな感情を抱えながら気持ちよく生活するのは難しい。生活を共にするコミュニティでは、このような時間が重要な働きをするのだろう、と想像する。

2 件のコメント:

mori さんのコメント...

守です。私も、アメリカで国際キャンプに参加した際などに、坂本さんが感じたような違和感を感じたことがあります。美しい風景に出会ったとき、欧米の人々が「ワンダフル、ビューティフル、ファンタスティック!!!!」と連呼すればするほど、私は、心に風景に入っていけない違和感を感じました。感嘆詞を口にしないと、「なんで感動しないの?」と聞かれるのもわずらわしくて。「言葉がないほうが、深く通じ合える」というのは、日本人の持っているコミュニケーションの特質かもしれませんね。言葉にしないと伝わらないこともあるけれど、以心伝心の文化もいいよなあと気づかされました。

mori さんのコメント...

守です。私も、アメリカで国際キャンプに参加した際などに、坂本さんが感じたような違和感を感じたことがあります。美しい風景に出会ったとき、欧米の人々が「ワンダフル、ビューティフル、ファンタスティック!!!!」と連呼すればするほど、私は、心に風景に入っていけない違和感を感じました。感嘆詞を口にしないと、「なんで感動しないの?」と聞かれるのもわずらわしくて。「言葉がないほうが、深く通じ合える」というのは、日本人の持っているコミュニケーションの特質かもしれませんね。言葉にしないと伝わらないこともあるけれど、以心伝心の文化もいいよなあと気づかされました。